落ちたり上がったりまた落ちたり

双極性障害2型で激鬱が0、激躁が10の10段階評価をしてるブログ

読書

昨日、SOSブログを書いてから、本を手に取り寝るまで読んでました。それで落ち着きました。

かなりの英才教育を受けた私は、[テレビを観ると馬鹿になる。漫画を読むと馬鹿になる]などなど母に刷り込まれ、今でもテレビに嫌悪感があるのです。ですからダラダラテレビを観てると、パニックに。ピアノの練習をしている時と、本を読んでる時は、母の機嫌が良かったです。

当然観るテレビも母に決められていました。ニュースだけの日もありました。漫画は買ってもらえませんでした。

そんな厳しい躾により、小学1年生で、毎晩吐くように。

朝も吐くので、しばらく学校を休みました。1年生から成績で1番を取るように言われてました。ストレスだったんでしょう。けれども母は手を緩めず、中学受験をすることに。塾にピアノに書道に水泳。特に塾は四谷大塚の会員だったので、毎週成績順位がズラリと公開されました。上位にいないと、母は露骨に不機嫌になります。

私は頑張りました。そうしたら、小学5年生で胃に穴があき、長く入院してました。

医師から両親に話したらしく、中学受験は断念して、四谷大塚も辞めました。少しずつ体調は良くなりましたが、ストレス過多だと吐いてました。

公立中学に行き、高校受験の時、病弱な私は自宅から通える範囲で1番偏差値の良い私立高校へ行くように命令されました。命令です。無事に合格しましたが、今度は高校1年から、1番になるよう言われました。1学年400人。その中でです。私はヘトヘトになりながら、勉強を続けました。キツかった。本当に。

大学でも、母はタズナを緩めることなく、1番にこだわりました。1年生からゼミに入り、サークルも母が決めました。

結局大学は次席でした。首席の子がものすごく優秀でした。

私は学生時代、勉強してた事しかほとんど思い出せません。母はなぜあんなに成績にこだわったのか、今でもわかりません。両親とも名の通った大学を卒業してました。だからなのかな?

20歳の時に母が自殺してなければ、私が才能の限界をわかってても何でも、大学院に行かされたでしょう。

才能が無いのに大学院で研究を続けるのは、大変なことだったでしょう。母が自殺したのは、ものすごく悲しいことでした。本当に。けれども、やっと自由になれた感が無かったと言ったら嘘になります。

母が生きてたら、主人とも結婚出来なかったと思います。お見合いの話しを持ってくるか、生涯研究を続けるかどちらかだったでしょう。

母はよく私に言いました。[あなたは私の誇りなのよ]。

母の誇りであり続けることがどんなに苦痛だったか?

娘にそんな昔話をしたら、[毒親だね]と一言。

そうかって思いました。

私が精神病を発病したのは、母の遺伝ももちろんありますが、なるべくしてなった感もあります。ペンだこが今でもあります。爪が曲がっています。

けれども、私は母が無条件に好きでしたし、尊敬してました。母が自殺してしまったこと、今でも自分のせいだと思っています。私が母の希望に添えなかったからだと。

お母さん、ごめんなさい。許して下さい。

それでは。